ステイホームで
コロナの影響で、ステイホーム、会社に来ないでできることは家でと強く呼びかけられました。感染症のリスクとは、中長期的な共存が必要、これは在宅勤務という勤務形態にとどまらないで、会社と個人の関係にも大きな変化を与えることになるでしょう。日本企業の強みであると喧伝された終身雇用、バブル崩壊からの景気低迷で、希望退職などでの人減らしは常套手段となり、グローバル競争のなかでの成果主義が強調され、非正規の雇用が40%を占めるようになってきました。実際の作業は非正規雇用や外注先、自身の成果はよくわからない、オフィスに来て座っているのが仕事という正社員は、通勤という、自身の存在を示す手段を失います。日ごろから着実な成果を残していた人は、正規・非正規にかかわりなく、通勤時間や無駄な会議に取られる時間が減って、効率が上がったと感じるでしょう。コロナ、在宅勤務の流れは、アウトプットを出せる能力を顕在化させるでしょう。

会社と個人の関係も変化、転職などの機会を求め、会社と一定の距離を置くというスタンスが特に若い世代に顕著です。
かつては当たり前に行われていた職場の旅行や運動会なども影をひそめ、飲み会などのコミュニケーションも少なくなってきています。また、職場ではPCに向かい作業するなか、業務に要求されるスピードがあがり、世間話などする余裕もなくなっています。
高度成長のなか、滅私奉公のように、仕事にすべてをささげるという生き方は、特に若い世代には敬遠され、個、家庭を大切にするということは、非常によいことだと思いますが、一方でコミュニケーション不足などによる組織間、組織のなかの個人間のコンフリクトが増加しているように思われます。それだけ、各個人、組織に求められるものが大きくなっており、常にプレッシャーがかかる状況で仕事をしていることの表れなのかもしれません。

漫画を描くのが仕事
1980年代はじめ、大学を卒業して入社した大企業は、課長が窓際に座り、係長がその横に、勤務していたのは情報システム部でしたが、机にはPCなどなく、プログラムなど組むときは、別室の大型コンピュータ入力のための端末機が並んでいる部屋にいき、共有の端末機で作業していました。
終業後の飲み会、毎月一定額を積み立て、休日をつぶしての社員旅行にも、何の疑いもなく参加していました。
最初に任された仕事は、当時出始めのパソコンシステムのマニュアル作り。工事現場事務所のおばさんが使うものだから、極力わかりやすいものを作れとの指示、悩んで出した結論は、マンガのマニュアル、もちろん手書きです。
はじめてみると非常に時間がかかる、今から思うと、簡単なシステムなのでマニュアルが必要だったのかとも思えるのですが、このままでは半年くらいかかるかと思っていたところ、いい加減にやめろと課長から指示があり、やめることができました。
こんなことをしていて「どうして給料がもらえるのだろう」と素朴な疑問を感じていました。
高騰する地価から、郊外のマイホームから遠距離通勤を強いられる社員も増加、80年代の終わりには、郊外に数社が共同でオフィスを借り、ここで仕事をするという「サテライトオフィス」という試みもありましたが、1991年からのバブル崩壊、強まるコスト削減から拡がることはありませんでした。

図書館にいるみたいな会社
2002年に転職、勤務した外資系のソフトウェア会社では、大きなビルの数フロアを借りており、ほとんどがフリーアドレス、だれがどこに座っているのかわからない、というか、モバイルPCと携帯電話で連絡を取り、連絡手段はメール、携帯電話、会議については会議通知をメールで送り、会議室で初めて会う人と顔をみて話すといった感じでした。コンサルティングが主な業務のため、顧客のところで仕事をしている割合が高く、外資系のため人の出入りも頻繁、同じく中途入社の人から、「図書館で仕事をしているようだ」と感想を聞いたこともありました。確かに、空いている席を探して座り、周囲を見渡しても知っている人はいないというのは図書館と同じ。

ロンドン出張なのに電話かよ
3社目として、2005年から勤務した外資系の製薬会社、ロンドンのオフィスに出張したおり、打ち合わせの相手が、かぜで具合が悪く、在宅勤務に変更したとのこと、わざわざ海外まで出向いているのに、電話で話すのかと。
海外の仕事相手と電話をしていると、そろそろ子供を学校に送る時間だからと、話を終わりにされたこともありました。
かぜで具合が悪いから家で仕事をするとか、子供の送り迎えを優先させるとか、オフィスにいることが仕事を意味しなくなったのだと感じ始めました。
日本でも、2011年、東日本大地震で会社に出社できない、パソコンと携帯電話で連絡を取り仕事をすることがありましたが、これを契機に在宅でもITネットワークを利用すれば勤務ができると、その可能性、また災害等への対策として在宅勤務の環境整備の必要性に気がついた企業も少なくなかったでしょう。在宅での勤務体制を着実に整備してきた企業はステイホームの呼びかけにスムーズに呼応できたでしょう、そうでなかった企業も、環境整備を加速化させるに違いありません。どこにいても仕事ができる環境整備は、働き方改革の流れにも通じ、特に女性に働きやすい社会作りへの動きも加速する、いろいろな考えはあるものの、在宅勤務が社会に定着する動きは進むものと思われます。

「社員は家族」のような考えで、社宅、社員の家族を含めた運動会、社員旅行、アフターファイブの飲み会など、濃密な人間関係が当たり前のように思われ、それがチームの会社の結束の強さを表すと考えられてきた昭和、高度成長の時代の日本の会社文化が、ポストコロナの働きかたでは、姿を消していくのでしょう。オンラインでの会議、メールやチャットでのコミュニケーションが主となり、濃密な「つながり」が感じられなくなった会社での人間関係から、地域や趣味など、私的なつながりに人間関係を求めていく動きは強まっていくのではないでしょうか。

製薬会社の本社に勤務しているときに、営業所に出かけていき会議で話をする機会がありました。MRといわれる、医薬情報担当者は、通常は家から病院に直行、営業所に行っても全員が座る席はないとのことでした。月に一度くらい全員が集まって会議をする以外は、自宅と受け持ちの病院との往復。ソフトウェア企業のシステム開発を担うシステムエンジニアも、顧客先で勤務することが多い、MRもSEも、会社への帰属意識は弱い、自身の持つスキル向上に強いこだわりを持ち、スキル、報酬を高める転職をいとわないという傾向が強い、板前など職人に通じるものがあると感じます。ポストコロナの社会では、自身の持つスキルにより高い感度を持って働くことが求められるように感じます。

幹部社員と若手のギャップ
100人くらいの部署に勤務していたときのことです。もとは、大企業の情報システム部門、ながびく不況で、情報部門の社員も余剰、金融機関など、旺盛なシステム化需要をとらえて、余剰要員を活用、ソフトウェア企業として分離独立した企業でした。ある年、4-5人の若手社員が退職してしまうということがありました。あわてた、部長クラスの幹部社員から調査するよう言われました。当時、自分はちょうど若手と幹部社員の中間に位置するなり立て管理職。幹部社員は、退職を思いとどませるため、「主任」など、あらたな肩書を作って、名刺を持たせたらどうか?などの話をしていたのですが、若手に話を聞くと、課長などのポストにつくと、人のことばかりで、技術の向上がのぞめない、どんどん変わっていくソフトウェア技術を自分のものにしていきたい、それによって自身の市場価値を高めていきたい、今の仕事には危機感を感じるということでした。
確かに、技術者がシステムを設計、開発することを生業とするソフトウェア企業の管理職は、だれが病気になった、だれが辞めそうだなど、受注した仕事を納期に遅れないで作成できるように、チームの要員を確保することが一番の仕事、「ひと」のことが、仕事の過半を占めるようになると自分の目にも映りました。「ああわなりたくない」と思う、若手社員と「若手は、肩書が欲しい、昇進したいのだろう」と信じている幹部社員のギャップを強く感じました。幹部社員は、大企業に就職、たまたま情報システム部門の配属となったことで、出向している、若手社員は、大企業の子会社であるソフトウェア企業に就職、専門学校や大学で、ソフトウェアを勉強したものも多く、ソフトウェア企業に就職した社員でしたから、当然のギャップといえるのかもしれません。

ポストコロナの働き方を考えると、大企業に勤務して、人間関係に目配せをしながら、昇進していく上司への忠誠を尽くし、自身の出世を目論むという働き方は、今後いっそう不確かなものとなっていくような気がします。