金融ビッグバンからの証券業界

金融ビッグバンといわれる一連の規制緩和は、1997年に施行されました。この規制緩和の約10年前、1989年にはじけたといわれる日本のバブル経済で、証券業界は空前の好景気にわきました。日本企業のなかで一番の経常利益をあげたのは、野村証券、当時は、護送船団方式ともいわれ、売買手数料は定められ、投資家を保護する、金融機関の破たんを防ぐという名目で、厳しい規制があり、中小の金融機関も破たんしないことが第一とされた時代です。

土地や資産を持たない筆者も、「一時払い養老保険」という金融商品で、7%を上回る利回り多少の恩恵を感じた時代でした。「マイナス金利」の今からは考えられない時代です。

1997年に施行された金融ビッグバン、フリー、フェア、グローバルの方針で、金融業界に関わる自由化政策が実施されました。背景にあったのが、先行するイギリスなどでの金融自由化、東京が金融市場として投資家への魅力をなくしていくことに大きな危惧があり、グローバル化のなか、日本の中で、国の規制により守られてきた金融業界をそのまま保護することは難しくなり、世界経済の海に各社が乗り出し、自身で海図を手に航路を決め進んでいくことを余儀なくされたのです。

 

金融ビッグバンの施行で、証券会社にとって一番の課題は、取引手数料の自由化でした。どこにいっても手数料が同じであれば、顧客は、近隣の証券会社にいくでしょうが、これが自由化されれば顧客は、手数料の安い証券会社を選択する。証券売買の取引手数料自由化以外にも、証券業への参入が自由化、銀行など金融業はもちろん、他業種の参入も解禁され、また外国資本も競争相手となってきたのです。また、時期を同じくして、インターネットでの取引も技術的に現実的なものとなってきており、アメリカではインターネット専業の証券会社も出現しておりました。このように複雑な連立方程式を解くような環境変化のなかで、証券会社はどのような戦略をとったのでしょうか。

 

四大証券、準大手(中堅証券)、小規模証券の戦略

政府の規制のもと、限られた競争しかしてこなかった証券会社にとって、他社との違いを打ち出して差別化を図ろうとする経営戦略など、必要悪ともいえました。規制のもと、他社より目立ったリスクを伴う大胆な戦略は実施が難しいのです。1980年代の証券会社のイメージは、「給料はよいが、仕事が厳しい、営業ノルマをこなすため必死に働くことが求められる」、野村証券など、「ヘトヘと証券」など、いわれました。規制のもと、同じような条件で競争するしかなければ、営業である証券外務員は、顧客のもとに日参する長時間労働により成果を生み出すしかなかったのです。

ところが、環境が激変、業界内の競走だけでなく、新規参入してくる異業種との戦いにも備えることが必要となったのです。他社との違いを明確に訴え、顧客である投資家を惹きつけるための経営戦略が必要になりました。

証券業界は、4大証券といわれた大手、これに次ぐ準大手といわれる中堅、そして多くの小規模証券会社がこのビッグバンのなかで企業戦略の方向転換を強いられました。